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アナログ期のマーラーの名盤
史上最大級の交響曲・・・
マーラー交響曲第3番
この、マーラーの3番は彼の交響曲、いや、今昔の交響曲の中でも最大規模を持っている。
長さだけでは、ブルックナーの第八番と双壁である。
第一楽章だけで30分前後。当初「岩山は語る」と
いう副題がついていた、この音楽はまさに山を散策するような趣きがある。出だしのホルンの勇壮な主題は、山歩きをする方ならおわかりだろう。森林から時々顔を出す、山々の険しい頂きのようだ。
第二楽章とスケルツォの第三楽章は、もっとミクロ的視点に立って自然と戯れるといったところだ。動物や草花そういった、生き物の愛らしい一面を見るようだ。第四から終楽章までは、連続して演奏される。
第四楽章は、アルトの独唱を伴った、神秘的な音楽であり。
第五楽章は少年合唱を伴う。
そして、
第六楽章の当初「愛が私に語るもの」とされた、マーラーが描いた最も美しい曲の一つに、導かれていく。
この曲は、人が自分自身の存在とは何かを気付かせる自然。また、その自然と、人の存在が強く結び付いていることを改めて気付かせるような音楽だ。
アルト独唱→子ども達の合唱→愛がわたしに語るもの、非常に興味深い連なりだ。
殊に我々人類は、今日に於いては、都市化の中で、人間疎外、交通戦争、さらには極端な場合にはテロに巻き込まれたり、目撃したりと。深い悲。しみと苦しみの渦中に置かれることさえある。
自然や愛を敢えて取り上げ、現代にこそ、不足したものを補う音楽がここにはある。
既にマーラーの音楽は、彼自信で起結する告白ではない。
いわば現代人類の精神面で不可欠なサプリメントとなりつつあるのかもしれない。マーラーは時空のトンネルを越え、我々と共感し我々に手をさしのべている。そう思いたくなるような内容の音楽だ。
さて、このヒーリングに満ちた、交響曲は、作品としては長大なので、指揮者には最後まで、一期に聴かせる手腕が必要。
各楽章の描き分けのアプローチが中途半端だと、六つの曲が連なる単なる音響博覧会になりかねない。
マーラーの残した言葉から自然との関わりは無視できないが、絶対音楽としての側面をおろそかにすると、曲のまとまりは容易に崩壊しかねないということだ。
それゆえ指揮者の力量は瞭然とする。
古からの名盤としては、バーンスタイン盤の旧盤がある。今もって秀演である。
だが、我々はもっと今日的なアプローチで成功した演奏に触れる機会がある。
それは、いわばX線技法ともいえる、分析で、マーラーの作品の細部を浮彫りするとでもいう方法か。
例えば、クーベリックのDGG盤はオーソドックスな名盤だ。しかし、録音の悪さも手伝って細部は全体に埋もれ勝ちかもしれない。
これに正反対に行くのが、インバルや、シノーポリ、そして、仕上げは表面的に滑らかに研きあげるがベルティーニ等だ。
この三人の登場により、それまで、指揮者の恥ずかしさやためらいにより、隠し味にされていたもの。
そういった曲の細部の構造が顕微鏡で見るように彼等によって浮き彫りにされたのだ。
(良い例は彼等の第5交響曲の終楽章の終結部だ。インバル盤の録音はワンポイントマイク主体なので、細部より全体の響きをひろっている。それでも、弦楽器や木管楽器の細かい音が聴こえてくる。シノーポリは更に過激で、コラールに突入した後、弦楽器の細かい刻みが克明に演奏されている。そして最後の20小節、勢いで押しかねないこの部分を、高度なリアルさを伴っているのには驚嘆するほかない。CDしかないベルティーニは敢えてここで取あげる。本拠地ケルンのライヴのエアチェックテープと、CDの録音を聴いた。テンポの変化は少な目だが、やはり細部を浮き上がらせることによる過激さがあり、どの位の音量で、どの位の強さで演奏するか、一音一休符完全制御で演奏されている。いわば完精度の高い演奏だ。第3番に話を戻すが、)
シノーポリは残念ながら、アナログは発売されなかった。
しかし、インバルとベルティーニはいずれも、優秀な録音で聴くことができる。
ベルティーニ ケルン放送響(1985) 演奏→9 録音→9
独ハルモニアムンディEX1695813
私のベルティーニとの出会いは、マーラーの演奏からだった。
アナログ末期、レコード店がそろそろ、アナログを辞めようかという、流れになりつつあった頃。
ベルティーニという名は日本ではまださ程知られていなかった。
私は吉祥寺の月二回程行くS商店に行き、毎度のようにレコードをあさっていた。
当時「マーラー小僧」!?だった私は、ある地味なジャケを発見した。
マーラーの交響曲第六番で、指揮者はベルティーニであった。
S商店の店員さんは詳しい方が多かったか゛ベルティーニに対する情報は殆どなかった。
家に帰って針を落とすと、仰天!複雑な細部が手にとるような演奏だった。
それ以来この盤は愛聴盤となり,私は彼をマークするようになった。
その後大分たって第三番を聴いた。これも同様に素晴らしい出来だ。
ケルン放送響は彼の指揮のもと、世界最高のオケとなる。
伝統や音色の特徴からいえば、ウィーン・フィルやドイツならベルリン・フィルの方が上。
そして独放送オケ実力ではNDRやバイエルン放送響の方が上だ。
しかし、このオケは、オランダ/ベルギー/フランスに近く盛んな交易によって栄えた町を背景に、先のオケとは別の特徴を備えている。
ベルティー二の指揮下では、その丁寧な音作りは精巧なボヘミヤグラス、音色は極上のブラス仕上げの金管楽器の輝きのように素晴らしい。
特に素晴らしいのは終楽章で、此れほどの美しさ持つ演奏はそう多くはない。
緻密だが、不思議と冷たい印象は全くない。音程が揃うとオケは音色が冷たくなり易いが、楽器間の音量バランスで調整をしているのだろうか。
これはベルティーニマジックだ。
トランペットを伴い、長いクレシェンドから、終結を迎える部分は、奇跡的で誠に美しい音の洪水に圧倒されるのだ。
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インバル フランクフルト放送響き演奏⇒9 録音⇒9(1985)
日DENON OX7301ND
インバルとフランクフルト放送響のマーラー全集は、
①その録音(主にワンポイントマイク主体)、
②国内DENONレーベルの全集、
③85年2月~86年10月(10番、大地の歌は後付)の短期間による録音等によって話題となったものだ。
インバルは当時のインタビューで、指揮を習ったことがあるバーンスタインの当時の演奏(DGGの録音と同時期)に対して
「若い頃(ニューヨーク時代)のような歯切れが足らない」とコメントしていた。
私自身それは、間違ってはいないと考えるが、実はバーンスタインの当時の表現が敢えてそうであったのだと考えられる。
そういったこともあり、インバルの表現は、歯切れの良いどちらかというと鋭利な表現になっている。
このオケの金管がまた、結構刺激的な音を出すのでそれを助長している。
時にそれが「うるさいと」感じるかどうかでこの演奏の評価が分かれるのではいないか。
この演奏は過激さを伴っており、カラヤンのレガート多様の表現や、ベルティーニのブラッシュアップとは反対の方向にいっている。
それは躍動に必要な要素であり、当然敢えてそうしているのだろう。
用意された粗さを含む表現だ。
殊に第1楽章などは面白く聴ける。前に前に進んでいく推進力は魅力的で、30分と長いが決してダレることはない。中間楽章の描き分けも周到で、第3楽章も素晴らしい。
凡庸な指揮によるとポストホルンの現れるあたりで眠くなるが、この演奏はそうなりにくい。
ピーンとした緊張感が持続している。
実は、私にとって、この演奏も含めインバルのマーラーは、演奏の素晴らしさを認める点は多々あっても、そう頻繁に聴く演奏ではない。
それは、疲れているとき癒されるタイプの演奏ではないからであろう。
インバルのマーラーと向き合うにはそれなりの聴き手の向き合うエネルギーが必要なのであろう。
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レヴァイン、シカゴ響 演奏⇒9.5 録音⇒9(1975)
独RCA RL81757
インバルやべルティーニそしてシノーポリは、それまでの指揮者達が躊躇した細部の解析にまで踏み気込んだ表現でマーラー演奏史新しい流れをつくった。
しかし、このような流れは急にできた訳ではない。私見では、この流れはアメリカで産まれたのでないか。
アブラバネルとユタ響、レヴァインとシカゴ響やフィラデルフィアに注目だ。
前者はCDで聴くとまるで別もので音が貧しいだがアナログだと素晴らしさは瞭然とする。
多分編成はやや小さいが其れ故、アレグロ楽章の出来がよい。
第五の最後のコラールの部分など、弦の刻みが明瞭だ。
レヴァインは、緩やかな楽章で成功している。
第3、第9そして補筆完成された第10では透明度の高い美しい演奏を行っており、無機質的になり易いアメリカのオケから多分に叙情的な音を存分に引き出している。
レヴァインのマーラーは緩やかな楽章をたっぷりとしたテンポで進める。
シカゴ響やフィラデルフィア響ではないと決まらない、他のオケでは粗が出てしまうのではといいたくなる程のテンポの粘り方だ。それにしても完成度が高い。
マーラーにしては美し過ぎるのではという意見もあろうが、ここまでやれば文句はない。
レヴァインのマーラーの三番との出会いは、今はもうない池袋のW商店においてであった。
ジャケはまるでチャイコのクルミ割り人形ではないかと思える程、可愛らしいものだ。
正直見た目で購入したが、針を落としてみて、圧倒されてしまった。
既にシカゴ響のマーラー演奏は、ショルティで経験していたが、もっとメカニカルであった。
これは間違いないなく今昔のシカゴ響のマーラー演奏でも上位に入る内容だ。
ライヴに近いオフマイク気味な録音なのも、よい方向に、働いているようだ。
シカゴ響は上手いがそれ故に音が聞こえ過ぎる嫌いが多少ある。
しかし、この録音では全くその心配がない。寧ろ首席奏者の妙技を自然体で堪能できるのだ。
これでももっと鮮明さを求めるなら、ドイツのDMM盤に登場していただくほかない。
通常盤より一皮剥けた、鮮烈な音質だ。以前にも書いたがDMMはこうした成功例もあるのだ。
シカゴ響のトランペットの首席はハーセス、トロンボーンの首席はフリードマンだろう。第一楽章での全奏部での力強さと、対比的なフリードマンのソロの叙情的な表現はまことに素晴らしい。
ハーセスはここでも、完璧とも云えるプレーを披露。特に最終楽章の最弱音はまさに神がかっており、その洗練された美しさには驚嘆してしまう。
ハーセスの技術をもってすれば、殆んど木管楽器と同様にオケに溶け込むことも可能なのだ。
それほどまで、コントロールされ、かつ美しい弱音を持った演奏はそうはない。
シカゴ響の力もあろうが、レヴァインとマーラーの緩やかな曲との相性も抜群でる。
また、彼のこうした大曲をまとめる力も秀でているようだ。
彼のオペラ指揮者としての才能も十分生かされているということであろう。
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バーンスタインの一回目
演奏⇒9.8 録音⇒8.5(1961) 米COLUMBIA M2S675
これはバーンスタインの一回目の全集の傑作。バーンスタインの旧録音の中で、第4番と並んで歴史的名盤といえる。
録音は最上とはいえないが、晩年の録音でこそ名盤を連発したものの、若い頃の中では数少ない決定的名盤である。
彼の一回目のマーラー全集は、大地の歌、第八を除きあとは、ニューヨーク・フィルで完成させられている。
第一、第三、第四、第七等は、二回目と比べてもなかなか魅力的な仕上がりだ。
若々しい躍動とストレートな熱気の巨人、歌手を含め幻想的な第四、首席奏者の名技ではDGG盤を上回る第七。そして、ここでとりあげる第三番も、素晴らしい。
1950年代から60年代の演奏としては、特筆される出来だ。
オケの少々の荒さを、欠点として挙げるのは簡単なことだ。
しかし、この血が血を呼ぶような表現は理屈ではとても解決できないところにある。
彼のマーラーは、表面を研くよりも、何を訴えかけ、何をなげかけたいかを重んじている。
美しさはもちろん全くないわけではない。
しかし、歪みや軋みも多く含まれるのだ。
一方でカラヤンや、ベルティーニやノイマンは同じマーラーとはいえはないが、しかし、彼等の演奏がある意味共通して持つ、美観とは別のベクトルにあるのではないだろうか。
バーンスタインのマーラー演奏の特徴に粘りがある。
バーンスタインは、ある時は恐ろしいものを避けるように、迂回するように、うねりながら前進する。
そして、時には、痛みや苦しみに身を投じ、敢えてそこに止まるかのごとく音の中にへばりつく。
しかし、何より驚くべきことは、この時代にこんなレベルの高い演奏をしてしまう、バーンスタインの素晴らしさだ。
彼のマーラーの演奏史で演奏そのもが成熟するのは、バーンスタイン彼自身二回目の全集に着手した、1980年以降だ。
しかし、彼自身の第三の再録では、ここで取り上げている旧録に劣るところがある。
思い切りの良さや、何か新しい世界を切り開こうとする感覚、そしてオケのソロの味付けという意味での名技性は旧盤が上なのだ。
この盤の聴きどころは、第四楽章以降だ。何かミサのような雰囲気を持ってはいまいか!?
これから栄えるマーラーの世界を謳歌した。世界の夜明けのような演奏。
音楽に感激しながら、陶酔しながら、活達に指揮を振るバーンスタインの姿が目に浮かぶ絶品の名盤だ。
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クーベリックとバイエルン放送響 演奏⇒9 録音⇒8.5(1967)
独DGG 139337
ボヘミア出身のクーベリックはノイマンと同様どこか牧歌的なマーラーを聴かせる。
バーンスタインのような、ユダヤの血を感じさせるマーラーではないが、激流無し涙無しで聴けるこのような演奏も必要だ。
録音の分離があまりよくないが、実際にはこれがライブに近い音質かもしれない。
クーベリックの演奏は、絹の織物を紡いでいく感じ。
ノイマン同様彼等特有の感じ方や捉え方なのだろう。品格を失うことはない。
川のように、清らかに流れていく。
それゆえ第一楽章には、力強さが欠けたりするかもしれない。
しかし、この演奏の魅力は、第二楽章以降にある。
ボヘミアの指揮者は必ず、スメタナの我が祖国を振る。
マーラーの三番は、大柄で、交響曲としてのまとまりよりも。
我が祖国のような連作交響詩の趣きがある。それ故クーベリックの聞かせ方が悪かろうはずがない。
描き分けが巧妙なのだ。第二楽章全体や、第三楽章の中間部のポストホルンのソロなどは、ボヘミヤの自然を想起させるような演奏。この曲から自然な感激を呼び起こすものとなっている。
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メータとロサンゼルスフィル 演奏⇒9 録音⇒9.5(1978)
日ユニヴァーサルL45C3154
メータとロサンゼルスフィルの集大成というべき、名盤である。
彼のマーラーは、私見では 1、2、3の仕上がりが特に良い。
若々しい躍動と熱気の、そして、何よりもメータ特有の中庸の美学がマッチするのではないか。
この機会にと思い、古いエアチェクテープを引っ張り出してきた。
メータとウィーンフィルによる第三の演奏だ。ロサンゼルスフィルとのデッカへの録音の後のもの。
歌手を含め、特筆される出来だ。第二、第三楽章は、復活の時同様、やはりウィーンフィルは素晴らしい。
ロサンゼルスフィルとの録音は、両端楽章に威力を発揮している。
デッカの優秀な録音も手伝って、中庸かつ克明な演奏。第一楽章は予想よりもテンポの揺れはあるものの、自然な進行。
数ある名盤の中でも、この曲が変速?的なマーチだという印象が最も強い演奏となってる。
結びも、熱くなり速すぎてオケが、バラバラの演奏の凡演とは異なる。
大行列の足並みがピタリと揃ったような演奏だ。
終楽章は、作品、指揮、オケ三位一体の演奏。
バーンスタインのような魂を揺さぶるような感激にはいたらないものの。
清々しさがメータの売りだ。
高級カクテルのような演奏だが、このような演奏も必要なのだ。
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ショルティ、ロンドン響 演奏⇒9 録音⇒9,2(1968)
独DECCA 635708 10LP
ショルティには後年シカゴ響と演奏があり、録音が優秀でそれに拘るならば、そちらを採りたい。
しかし、表現が時に機械的に聞こえる嫌いがある。
シカゴ響としては、総合的には水準の高い演奏ではない。
私はロンドン響の演奏に、意外にもショルティの強い叙情性を見出した。
カンフー・ショルティ!失礼ながら彼の指揮の印象はどちらかというとバトル系だ。
しかし、この録音と同時期の第9の録音には、意外な一面を見ることができる。
アプローチの方向性は確かに、後年のシカゴ響の録音とあまり変わらない。
しかし、何が違うのか?それはなぞである。
この曲の終楽章は「愛が私に語るもの」。
ショルティは亡くなる直前のインタビューで音楽家と政治的なものとの関わりのないことを述べている。
しかし、音楽家としてのショルティの、この終楽章に何か深い熱いメッセージを聞くのだ。
1980年頃から使用されたDMMというカッティング方式で聴いてみたい。
カティングはラッカー盤ではなく、メタル盤に直接行われる。
1工程が省略され、特に高域にメリットがある。
ボリュームを普段より1.3倍に設定して聴く。
オリジナルのラージデッカよりも、鮮度の高い高域を伴って、素晴らしい録音が蘇る。
by marakiti1968
アナログ時代のマーラー演奏を振り返る
marakiti1968
5楽章制の採用による進化と、
ブルックナーに匹敵する巨大交響曲路線の『復活』其の四
マーラーの交響曲は、ほとんどが一時間を超す大作である。
それ故、自分にとってのいわゆる名盤を探すのには、
それなりの時間が必要かもしれない。
私は青春時代によく野山を散策したものだ。
実家はトトロの里である、狭山丘陵にある。自分の庭だと思っていた、
そんな丘陵にも、息を飲むような光景を見掛けることもある。
マーラーの全交響曲の名盤を探す旅も似たところが多いかもしれない。
この曲のこの部分はこういう風にも演奏できるのか。とか、
この指揮者がこんな演奏をするとは!とか。
日々、毎度発見の連続だ。今回の連載は、レコード限定だが、
近い将来は、マーラーのCDを全て聴きたいと思っている。
マーラーの交響曲を聴くことは、私にとって、
一切見返りを求めないライフワークなのだ。

ワルター&ウィーン・フィルの『復活』 日SONC19 (1948)
演奏⇒9.0 録音⇒8.0
マリア・チェボターリ、ロゼッテ・アンダイ
ウィーン国立歌劇場合唱団
今回のマーラーの連載は、失敬ながら「気まぐれな」ものなっているが、
まだその旅も1/5が終わったかどうかというところ。
今回は復活の最終回になるが、
やはり、あの!
…ブルーノ・ワルターに登場していただこう。
ワルターの「復活」は2度目の登場。
心の底から震えるような感動を求めるならば、
既に取り上げたニューヨーク・フィル盤となろう。
こちらの、録音はその録音に限界があるために、
マーラーの音楽をフルカラー映像で楽しむことはできない。
しかし、フィルムが傷んではいるが、モノクロ映画のような威厳と、
そして奥ゆかしさのようなものがある。だからといって、音は悪くはない。
友人宅で、徹底して調整した再生装置で蘇ったその絵巻は、
極上の山水画のようであった。
この演奏自体はまさに「威厳」のある儀式のよう演奏だ。
ワルターと同オケのマーラー:交響曲第9番ニ長調(1938)のウィーン・ライブ
(SP、mat.HMV2VH7027-46)
から10年後の演奏。その後、戦渦を逃れ、アメリカに渡った彼が、復活を振る。
苦難を乗り越えた巨匠が、この上なく感動的だ。
そんな感動的な場面でもワルターのことだから、
力んでオケがグチャグチャになったりすることは、当然皆無。
ワルターは、米ブルックナー協会から依頼されて書いた論文でこういっている。
「特筆すべきはマーラーとブルックナーが異なるアプローチに寄っているとはいえ、
宗教的であるということです。」
(ワルター、米ブルックナー協会「ブルックナーとマーラー」から:北原賢一氏訳)
そうした、ワルターのマーラーの作品への評価が、まっすぐに演奏から伝わってくる。
バーンスタインのような、耽溺する演奏も魅力だ。
しかし、この演奏の素晴らしさは、どんなに強い音の部分でも、
制御された彼流の正確さで彫琢されたフォルムを持っていることだ。
そして、ワルターは司祭のように、淡々と儀式を進めるのだ。
ワルター解釈は、どちらかといえば、
マーラーの「過激さ」を抑えたアプローチをしている。
しかし、深い譜読みを行っているため、マーラーの特徴に
ワルターの「デリカシー」をブレンドすることに成功しているのだ。
一方で、第9番(1938)のライブ同様、
彼に応えるウィーン・フィルの音楽に対する姿勢にも頭が下がる。
このレベルをライブでやってしまうのは、簡単ではないことだ。
同曲メータのDECCA盤に比べれば、音質は劣る。
しかし、それだけの理由でこの演奏を聴かないとすれば、
マーラーファンにとってはもったいない話だ。
マーラーは、ワルターの晩年に到達した完熟の演奏を当然聴いてはいない。
マーラーはメンゲルベルクを、高く評価していたのは有名な話だが。
もし、マーラーがワルターの晩年の演奏を聴いたら、
どのような感想をのべるか、本当に興味が尽きないところだ。
このマーラーの『復活』は演奏史において、最初の録音ではない。
しかし、実質的に「日の出」のような存在の録音といっていい。
そんなこのレコードは、我が国の音楽業界の偉大な先輩達による熱意で
製品化されたのだ。
ライヴをオーストリア放送協会が放送用に録音。
それをソニーのスタッフが、数年かけて、関係者を説得し漸く実現したものだった。
彼らの尋常ではない努力の積みに対し、心から感謝したい。
マーラーと向き合う日々・・・アナログ期のマーラーの名盤⑤
アナログ時代のマーラー演奏を振り返る marakiti1968
5楽章制の採用による進化と、ブルックナーに匹敵する巨大交響曲路線の『復活』其の三
マーラーの演奏に於いて、ウィーン・フィルは、早くから、ワルターと第9や大地の歌の録音に取り組むなど、貢献は小さくない。
しかし、このオケの戦後は、ワルターとの声楽つきの、第2、第4、大地の歌等は、成果を出したが、第5~第7等は1970年代のバーンスタインとの映像、1980年代、マゼールの全集の登場によって漸くこのオケに受け入れられられたといったところだ。これは、マーラーの交響曲の全てが、それぞれが強烈な個性があり、描き分けるのに、想像以上の困難を伴うためではないか。曲の完成度はそれぞれが高い。そのため、ある一定水準には到達するが、秀でた演奏にまで引き上げる為には、指揮者とオケの理解の深さが必要なのだ。
『復活』はウィーン・フィルにとって、比較的馴染みの曲といえよう。戦後まもなく、1948年にワルターが放送録音を残している。更に、四半世紀後、ズービン・メータが、演奏、録音ともに優れたものを残した。
メータの『復活』は、全体の流れはごく自然であり、その流れの中に、緩急を織り混ぜている。自然な流れを作るのはこのオケは得意だが、第1楽章等は、著しく粘る瞬間もあり、驚かされる。それにしても、このオケがこれだけ力強く鮮烈で、内容の濃い演奏をしているのは、そうはない。同じマーラーはなら、バーンスタインの第5のDGG盤、DECCAの大地の歌。同じくDECCAの録音で、ショルティのリングか。
メータ&ウィーン・フィルの『復活』 英DECCA SXL6744/5 (1975)
演奏⇒9.5
録音⇒9.8

第1楽章、テンシュテットと並び、この楽章だけとれば、非常に優れた演奏だ。切羽詰った表現であり、空気の流れる音が聞えそうな、優秀な録音がそれを助長する。
第2楽章 こうした3拍子の音楽に対するこのオケの素晴らしさは、改めて必要する必要はないであろう。優秀なバレリーナの舞踏のようであり、その香りは、かけがえのないものだ。
第3楽章 前第2楽章との描き分け素晴らしい。音色の変化や、香りに乏しいオケだと、
この2つの楽章は間延びしかねない。メータが旨くリードしているともいえるが、実際にはメータが、このオケを信頼し任せてるような面もあるかもしれない。
第4楽章 クリスタ・ルードヴィッヒの名唱が聴ける。マーラーのスペシャリストとして実力を発揮しており、深々としており、ビロードのような肌触りの歌声だ。
マーラー自身は、単純な信仰の壮快な次のような歌が聞こえてくる。と説明しているらしいが、私にはもっと深い悲しい何かをここに聴くのだ。
第5楽章は、第1楽章と並び秀でた演奏となっている。メータのアプローチは、非常に絶対音楽的だ。しかし、オケ、指揮者、声楽陣の高い音楽表現力が結びつき、まさに感動的な終幕となる。マゼール盤は、同じオケなのに、盛り上がりが表層的なのに対し、ここでは、そうした無機質的な表現は一切なく、内的高揚感が素晴らしい。
この演奏は、英オリジナルsxl6744~5のナローバンド、オリジナルで聴きたい。しかし、
これほどの、名曲+秀演+優秀録音の音楽ソフトはそうはない。アナログ再生&アナログ録音の二つの条件に拘れば、『復活』の中では最良、場合によっては、アナログのマーラー録音でも片手に入る素晴らしさではないだろうか。とにかく圧倒される一枚である。
マーラーと向き合う日々・・・アナログ期のマーラーの名盤④
アナログ時代のマーラー演奏を振り返る marakiti1968
5楽章制の採用による進化と、ブルックナーに匹敵する巨大交響曲路線の『復活』其の二
1990年10月14日は、生涯忘れえぬ日となった。レナードバーンスタインが没したのである。私は、数日間、落ち込んでしまった。大きな喪失感。底知れぬ悲しみに浸るしかなかった。
なぜなら、彼こそが、私に、マーラーの世界へ導いてくれたのである。今でも昨日のことのようだ。高校3年の時発売された、彼のDGG録音の、第9と第7を、高校生としては大金の一万円を使い果たし一度に2点、LP4枚を購入した。二つの演奏に圧倒された。半端ではない激しい感情移入と、粘るテンポの中に、最大限満された音の重なり。特に、死の受け入れを拒むような、死への道を恐る恐る進むような、第9の終楽章。そして、夜空=宇宙の暗闇を飲み込む勢いで放射される光、それはまるで超新星爆発のような第7の終楽章は圧巻だった。
バーンスタインは、私をマーラーの深い世界に導いてくれた。そして、バーンスタインがマーラーの第9と第7番を私の好きな曲にしてくれたのだった。
そんなバーンスタインがこの夜を去った。この前年に私の人生に於いて重要な人がこの世を去っており、私は、人生に関して非常に後ろ向きになっていた。しかし、そんな、私を癒し、生きる勇気を与えてくれたのが、マーラーであり、バーンスタイン自身最後の『復活』であったのだ。
バーンスタイン&ニューヨークの『復活』 独DGG 423395(1987)
演奏⇒10
録音⇒9.5

第1楽章、その開始は、テンシュテットや、ショルティに比べれば、物理的には、衝撃の小さいものだ。しかし、息き絶えそうな、人間には、この衝撃で十分だといわんばかりの表現ではないか。底知れぬ深さの谷の崖まで追い詰められたような圧迫感。短い音符の連なりの間にある休符の間がこれ程意味深げで恐ろしい演奏はそうはない。変わって、第2主題は、雲間から僅かに差し込む、救いの光だ。隠滅たる光景にも、毎日日は登り、荒野にも一輪の花を咲かせる。
この楽章を聴き抜くのに必要な安息を与えるのだ。
第二楽章は、この全曲の唯一のオアシスだ。ちょっと、ユーモアもあって。微笑ましく聴ける部分もある。
第三楽章は、これからやってくる、嵐を予感させる。遠くに聴こえる雷鳴のような楽章だ。曲の最後のテンポのあがる部分は、何かを見い出し、一目散に走ってていくようであり、それは、第四楽章にあることは明らかだ。
第四楽章は悲しい事実に遭遇し、人が悲しみにうちひしがれながら、膝を着き泣き崩れる。そんなことを想像してしまう音楽だ。バーンスタインは、マーラーのそして自身の、更には人類の悲しみの全てを、この曲に表現しているかのようだ。底知れぬ深い音楽が鳴り響くのだ。この楽章は。終楽章の導入であり、その嵐のような開始を際立たせる静けさとなっている。声楽の柔らかさと、暖かみを加えて、終楽章冒頭の鋭さと力強い器楽との対比を行っている。バーンスタインはまさにこの点を充分に心得おり、嵐の前の静けさを演出しているのだ。しかも、彼には比類ない感情への没頭があり、演出と計算を、僅しも感じさせない。彼自身の中でこの作品を消化仕切っている感が強い。この録音と、先立つ二種の旧録音とでは、この点の違いが決定的だろう。特にロンドン
響との録音から、遅くなったテンポは、はじめて、この録音で意味がもたされたといえる。
終楽章の開始。ただごとではない音楽絵図のようだ。怒りと悲しみが込められた開始だ。脳裏に数々凄惨な映像が、想起されかねない意味深げな開始ともいえる。内的激しさを伴い、赤と黒の世界を見せ付けられる。バーンスタインは、それを、表面的に、刺激的になり過ぎないようにもっていく。オケを完全に掌握しており、応えるニューヨーク・フィルも、比肩するものが、無い程の出来だ。このオケは乗りに乗った時は、底力を見せるのだ。ライブとはいえ、恐ろしい程の精緻さである。ワルターとも素晴らしい録音を残したが、このオケと特にこの『復活』との相性も抜群のようだ。
マーラーとバーンスタインによって、赤と黒の世界から、我々は緑と青の世界に導かれていく。冒頭の動機の再現の後、寂しい夜に何かを告げるかの様に鳴く鳥が歌い終わると、静寂が訪れる。暗黒の世界の中に、天から降ってくるような、合唱が始まる。すると、真っ黒だったと思っていたそこには、星が輝きはじめ、やがて満天に星が輝く光景となる。そして徐々に夜空の下が明るくなってくる。ソプラノとアルトのかけあいを経て、音の重なりが、合唱に引き継がれる。すると、太陽が地平線から覗きはじめ、そこからは、今までの人生で見た、最高の絶景が視界に広がっていくかのようだ。緑々した大地と、青い海の世界。そしてそれらを照らす強く輝く太陽の光に包まれていく。第八交響曲の最後が、神秘の合唱ならば、バーンスタインの『復活』の最後は、奇跡の合唱であろうか。晴天に輝く太陽の光は、更に強くなり、全てを飲み込み、眩い光の中に世界が消えていく。
マーラーは、半世紀後に自分の時代がやって来ると確信していた。マーラーは、あの二つの世界大戦があることを予測していたのだろうか。今日の現代社会に潜む病魔を予測していたのだろうか。本当ことは分からないが、この『復活』や次の第三交響曲にはヒーリングの要素が多くあるのではないだろうか。(精神に関わる治療を受けていない段階ならば)この曲は、前向きに生きようとする活力回復の、手助けとなるかもしれない。私は、ある指揮者のように、マーラーの精神分析し、また作品をも分析するつもりは更々無いない。また、歌詞の分析は数多くされているので敢えて触れない。私が唯いえることは、マーラーの音楽には、現代社会の歪みによって、我々人類が失った何かを補ってくれる可能性を否定することはできないということである。
バーンスタインのこの録音はそういった意味でも、現代にふさわしい演奏といえる。若き日のバーンスタインは、ある意味で粗削りで刺激的であった。しかし、彼が『その時の現代』をその時代を歩むことによって、辿りついた結論は異なるところにあった。刺激的よりもつつみ込むような、粗野より緻密な演奏で多く人々の心の中に入り込むスタイルではなかったのか。 テンシュテットの『復活』の第一楽章は、真に素晴らしい。しかし、全ての人々が、あの激烈さと、尋常ではない物理的緊張感を受け入れられるかは大変疑問だ。バーンスタインの演奏は、ゆったり目のテンポなどは独自の感じ方があるが、それも多くの人々にカタルシスをもたらすのに効力があるのだ。彼を信じ身を委ねれば、我々は終には例え様も無い感激の瞬間を迎えることができるのだ。
アナログ時代のマーラー演奏を振り返る marakiti1968
5楽章制の採用による進化と、ブルックナーに匹敵する巨大交響曲路線の『復活』
・・・□□□マーラー:交響曲第2番『復活』 其の2□□□
マーラーの交響曲は第2番『復活』で、大きな進化を見せる。巨人の出来映えと質は、決して低くはなかったが、『復活』の完成度はマーラーが勝利の方程式を獲得して書かれたものだ。
それは、
①第1楽章に葬送行進曲または行進曲を置く、
そして、
②リート作曲家として、高い完成度の声楽を伴う楽章を持つ。
③つ目としては、五つの楽章構成で、マーラーの湧き出るような楽想と幅広い管弦楽法を披露できる。
かつ、最終楽章の前の楽章が、最終楽章の『序』となり、全く別の曲でありながら、強い関連性を持つ。
①第2、第3、第5、第6、第7に広い意味で当てはまる。
②は第2、第3、第4、第8、『大地の歌』。
③は、第2、第3、第5、第7の2曲目の『夜の歌』つまり、第4楽章も、実は輝かしい第5楽章を引き立てる意味で、相互の関連性は強い。そして、第10にいえる。『大地の歌』、第9、第10は方程式と無関係の、更に高次元の傑作として、別として評価されるであろう。しかし、その他の曲に関しては、私は、上記、方程式の内2つ以上を連立した作品が成功した作品と見ている。従って、第2『復活』、第3、第5、第7がそれに該当する訳だ。
第1、第4、第6の共通点は4楽章構成であることだ。マーラーは、とにかく1曲の中であれこれ盛り込みたい質なので、とてもそれは4楽章構成に収まるものではない。第6番は、その端的な例で、部分は物凄く素晴らしいが、諸井誠氏がいっているように、破裂しそうな程盛り込んだロマン性が、古典的構成との大きな矛盾をもたらしているのだ。指揮者が相当フォローしないとそれを暴くことになる。(交響曲名曲名盤100 音楽之友社)つまり、ケーキに例えれば、味は最高でも、具のイチゴが多すぎて、はみ出して見た目が伴わないようなものだ。
『復活』に話を戻そう。先のような理由で、この曲は私の中で評価の高い作品だ。曲の出来が優れているので、感動しない『復活』を探す方が難しい。しかし、その分、名演と呼ばれるレベルに簡単に到達できないのも事実だ。中途半端なアプローチでは、名盤の仲間入りは困難で、指揮者とオケの高次元の協同作業を要する。
結論からいえば、マーラーの直接的にせよ間接的せよ、影響を受けた、指揮者かオケが関わると完成度が高くなるようだ。指揮者ではワルター、クレンペラーは外せないし。孫弟子的なバーンスタインは少なくとも該当指揮者となる。オケでは、マーラー自身が指揮者であったニューヨーク・フィルは、はずせないし。戦後直後のマーラー普及の貢献度は必ずしも高くないが、ウィーン・フィルも、ワルターと第9の初演と初録を行ったので、はずせないだろう。
第1番『巨人』では、オケの紹介を兼ねて、多めの盤を紹介したが、第2番以降は独断と偏見で、指揮者とオケと『これは』と思える名盤に限って、紹介していきたい。
①クレンペラー&フィルハーモニア管の『復活』 英コロンビアSAX2473(1962) ブルーシルバー(写真はMN)
演奏⇒9
録音⇒9

LPのクレンペラーの『復活』には、1950年のウィーン交響楽団のスタジオ録音(米VOX)、1951年のコンセルトヘボウ管とのライブ(英DECCA)がある。しかし、いずれもこのステレオ盤のおよそ10年前の録音である。私としては、解釈としても、録音の質としても、この盤を決定盤として挙げたい。
野村光一氏はその著書『名曲に聴く』(1951)で、マーラーの交響曲を「いずれも厖大、冗長である。・・・(中略)・・・時に余りに冗慢で吾人をしばしば倦怠させる」としている。また『復活』の個別の評価として「比較的こじんまり纏まっているのは第2番と第5番位だ。・・・(中略)・・・多少の冗長の傾向はあるが、第4楽章以後に美しい声楽曲が入っていて変化を見せている。且つ、それ以外に奇想天外な管弦楽法にも惹きつけられる」とある。氏が、冗長であるというのは、無理もない。当時はSPを何枚も交換し、ひっくりかえしながら聴かなければならなかったのだ。
また、この冗長さは、必ずしもこうした物理的なことだけがもたらすのではないと、我々は経験している。今日、20種類は楽々超える演奏を経験すると、演奏時間が長かれば、必ずしも長く感じるとは限らないなし。また、それが短ければ、全く退屈しないかといえば、しばらく聴いていてまさに倦怠感を感じる演奏もあるのだ。しかし、もし、時間が短く、内容が濃いものを選択するなら、このクレンペラー盤が最適か。第1楽章、終楽章はバーンスタインやインバルのようにテンポの粘りは、濃密ではない。返って、ぶっきらぼうとえる程の朴訥な運び方をする面もある。しかし、それでいて、終楽章のクライマックスで内的高揚が充分伴うのは、さすが『大クレンペラー』である。クレンペラーのマーラーは私の中で復権著しい!?演奏家である。世間で名盤とされる第7番も、大河のよどみない流れのような第9番も、この素朴な表現の『復活』も、私は正直言って過小評価していた。しかし、最近漸く、CDをオリジナルLPに買い直し、その素晴らしさを痛感したのだ。どの演奏も生々しい音質で蘇った。小細工はしない、素朴だが、よどみのない運び方は、誠実さと品格をもたらしている。バーンスタインの演奏のような恐怖と絶叫は聴こえない、ワルターのような啜り泣きをそそるものでもない。それでも、ここには
何度も、ピンチから『復活』してきた、不死鳥のような人生を歩んだ彼の、確信に満ちた歩みと呼吸が感じられる演奏なっているのだ。敢えてクレンペラーに注文をつければ、第4楽章は少しサッパリし過ぎた点であろうか。
尚この演奏は、英コロンビアSAX2473の初盤ブルーシルバー盤で聴きたい。オーディオ・ファイルとしても名盤で、高価だが演奏内容と併せて相応しいものだ。大オーケストラが雄大に鳴り響く。
②ワルター&ニューヨーク・フィルの『復活』 米コロンビアM2S 601(1958) 6EYES
演奏⇒9.5
録音⇒8.5

心の底から震えるような感動を求めるならば、このワルター盤か、バーンスタインの新盤=DGG盤(1987)になろうか。いずれもニューヨーク・フィルの過去の録音の中でも、代表的なものとなっている。ちなみに私の中では、ニューヨーク・フィルは、同じくアメリカのシカゴ交響楽団、欧州の、ウィーン・フィル、コンセルトヘンボウ管、そしてベルリン・フィル等ともに、世界のマーラーオケ、ビッグ5なのである。ニューヨーク・フィルは特に第4番までの、所謂『角笛交響曲』との相性が抜群である。特にこの『復活』は前述2種の録音があるため、匹敵できるのは、メータのスタジオ録音とワルターのライブ盤を残しているウィーン・フィル位であろうか。
この演奏の素晴らしさは、ワルターの繊細で、どんなに強い音の部分でも、乱暴にならないオケのまとめ方だ。特に第1楽章の出だし、暴力的に響かすのは簡単な低弦の音の連なりを、ここまで内的に訴えかける力を秘めながらデリケートに弾かせる指揮者を私はあまり知らない。また、第3楽章や第5楽章の金管の鳴らし方も、トランペットを中心に常に制動が利いており意味深げだ。あるときは天から降り注ぐようであり、ある時は、運命を宣告するシグナルとなる。
ワルターの指揮姿は映像で見れる。右腕の棒の振り方はシンプルで、克明にテンポを刻み、左腕は必要な指示を的確に出すといったところだ。顔の表情は基本的には柔和で、必要に応じて微細に変化させ、演奏に微細な変化をもたらす。いたって自然体かつ全身での指揮技術を見ると、なぜ、精妙にオケをコントロールできるかが納得できる。そして、その結果我々聴衆は、心の底から震えるような感動を得るのだ。ワルターの第1番『巨人』のコロムビア響との録音と同様の印象だが、作品への強い共感と愛情がひしひしと伝わってくる。まさに職人的で、かつ暖かい人間性を、デリカシーを感じる演奏だ。
(つづく)
marakiti1968
1、 アナログ時代のマーラーの演奏・・・ 米国オケの功績②
①ボストン響によるマーラー巨人
途中になっていた米国のオケによるマーラー演奏だが、まずは、ボストン交響楽団から。1962年より音楽監督としてエーリヒ・ラインスドルフが勤め、RCAのカタログを埋めるべく、マーラーを積極的に録音する。そして、1973年(2002年まで)より音楽監督 に迎えられたのが、小澤征爾だ。
●小澤征爾&ボストン響きの『巨人』(1977年)独DGG 410845-1
演奏⇒9.5点
録音⇒8.5点

「小澤征爾」という名前を聞くと、僕には楽しい思い出がある。高校時代の修学旅行のことだ。萩・津和野への道中、私は数学のI先生に捕まってしまった。私は、I先生の隣の席になった。数学の成績が悪いせいか?最初は会話が全くはずまなかった。しかし、ふとしたことから、クラシックの話になった。僕は、当時丁度LPを少しずつ集め始めた頃だった。先生は大変なクラシックLPのコレクターだと分った。そして、チャイコフスキー、マーラーやブラームスでは、それぞれでカラヤンはどうの、バーンスタインがどうのと有難い?お話をしていただいた。でもこれらの最後に行き着くのは「小澤征爾」という名前であった。そして私が「先生どこがいいのですか?小澤征爾の。」と聞くと、必ずニヤリと繰り返していうのだった。「瑞々しい」と。この時から私の頭の中には「小澤=瑞々しい」という可笑しな公式ができてしまった。しかし、当時の血気盛んな私は、激しい演奏が好みで、カルロス・クライバー や、バーンスタイン等こそ愛好する指揮者だった。そして、マーラーは、「瑞々しい」だけでは全く駄目だと思い込み、小澤の『巨人』には手を出そうとしなかった。これは結論からいえば大間違いだった。
それから10年後のある日、放送を聴いていたら、偶然この演奏に遭遇。オケは素晴らしく、アンサンブルは緻密で決して崩れず、全くうるさくならない。そして、まことに「瑞々しい」(笑)のである。FM番組覧にある演奏者の「小澤」という文字を、見て感嘆してしまった。「小澤征爾」がこんなに完成度の高い『巨人』を演奏できるのだと。また、痛感したのだ、マーラーの作品の中で殊に『巨人』に関しては、こうしたアプローチによっても魅力的な演奏ができるのだと。
若き小澤、時に42歳の演奏。そして、彼の数あるレコードの中でも1,2を争う名盤である。
②フィラデルフィア管弦楽団によるマーラー『巨人』
フィラデルフィア管も、レオポルト・ストコフスキー、ユージン・オーマンディ(1938年から組織に加わる)、ジェームス・レヴァイン、そしてリッカルド・ムーティ(1981~1992年)等とマーラーに取り組んでいる。『巨人』の録音を残しているのは、オーマンディとムーティである。
●リッカルド・ムーティ&フィラデルフィア管弦楽団(1984年)米EMI - Angel, DS 538078
演奏⇒7.5点
録音⇒9.0点

オーマンディ勇退した後のリッカルド・ムーティ(1981~1992年)が首席指揮者となった。潤沢な財力により、フィラデルフィア響には弦楽器に高価な楽器が備わっていた。前任のオーマンディの引き出す艶と輝きのあるサウンドは「フィラデルフィア・サウンド」といわれた。これは、オーマンディとムーティから異口同音に「オーマンディ・サウンド」であると述べられており、二人の音の引き出し方は異なるのだ。ムーティは、このオケの高い技術を維持しながらも、もう少し厚みと温かみのあるサウンドを引き出すようになった。
この『巨人』も、ムーティのアプローチは、彼の指揮ぶりからも分かるように、客観的だ。同じイタリア人アバドのような客観的でありながらも、もう少しのめり込むスタイルとも違いう。
ただ、フィラデルフィア管が、レヴァインのマーラーの第5番でも見せたの同様に、やや、無機質的な響きも見せるのが気になる。このような、傾向は、圧倒的な音響の洪水の終楽章はともかく、3楽章までがやや苦しくなる。
フィラデルフィア交響楽団はレヴァインの第9番や第10番(クック補筆)やオーマンディの第10番(同)では、素晴らしいパフォーマンスを見せる。『巨人』ではオーマンディは全く平凡な印象だし、彼らにとっては他のマーラーの曲に比較すれば『巨人』が簡単なのがいけないのだろうか。それで、やる気がでないのか?
2、アナログ時代のマーラーの演奏・・・ 欧州オケの功績②
①1960年代中頃までの、欧州におけるマーラーの録音
欧州のマーラー録音は、第2次大戦戦勝国先行で行われたといっていい。オケもオランダとイギリスのオケの貢献が大きく、ドイツのオケは1960年代後半まで、寝ている印象が強い。SP時代にあるワルター&ウィーン・フィルの歴史的な「大地の歌」(1936)、第9 (1938)の録音。そしてメンゲルベルクはアムステルダム・コンセルトへボウと、第4番のライブ録音 (1939)等を原点として、次のような録音が誕生していく。
以下オランダのフィリップスに、エドゥアルト・ファン・ベイヌムはアムステルダム・コンセルトへボウと大地の歌(1956)、エドゥアルト・フリプセはロッテルダム・フィルと第6番(1955)、第8番(1954)、オッテルロー指揮ハーグ・フィルハーモニーと交響曲第4番(1956)。(ベルナルド・ハイティンクはアムステルダム・コンセルトへボウと、第1番(1962)、第3番(1966)、第4番(1967)、第2番「復活」(1968)、第6番、第9番(1969)、第7番「夜の歌」(1969)、第5番(1970)、第10番~アダージョ(1971)交響曲第8番「千人の交響曲」(1971))
以下イギリスのデッカに、エドゥアルト・ファン・ベイヌムはアムステルダム・コンセルトへボウ管と 第4番(1951)、ゲオルグ・ショルティがロンドン響と『巨人』(1964)、『復活』(1966)、第3番(1968)、第9番(1967)、コンセルトヘボウ管と第4番(1961)。
以下イギリスのEMI系に、ジョン・バルビローリはニュー・フィルハーモニアと第5番(1969)第6番(1967)。意外にもベルリン・フィルの1960年代のマーラー録音は少なく彼と第9番を録音(1964)。オットー・クレンペラー フィルハーモニアと第2番(1961)、第4番(1961)、ニュー・フィルハーモニアと第7番(1968)、第9番(1967)、大地の歌(1966)。パウル・クレツキはウィーン・フィルと第1番(1964)。フィルハーモニアと第4番(1957)、大地の歌(1959)、そして第5番のアダージェット(59年)。
イスラエル・フィルと第1番(1954)、第9番(1954)。
以下米VOXにヤッシャ・ホーレンシュタインは第9番(1953)、オットー・クレンペラーは第2番(1950)。
以下米ウェストストミンスターにヘルマン・シェルヘンはウィーン国立歌劇場管と第2番(1957)、第5番(1953)そして第7番(1953)等。
以下チェコスロヴァキアのスプラフォンにカレル・シェイナは チェコフィルと交響曲第4番(1950)。カレル・アンチェルはチェコフィルと第1番(1964)及び第9番(1966)。
独エテルナにオトマール・スイトナー、ドレスデンシュターツカペレは『巨人』(1962)。
米ウラニアに、ハンス・ロスバウトは第7番(1957)。
アドラー指揮ウィーン交響楽団は第3番と第6番(1952世界初録音盤)。
ドイツは敗戦国で、資金的な面が原因で録音が遅れたのか?それとも、マーラーの音楽を受け入れられなかった土壌があるためか?1965年まで、マーラー録音には積極的とはいえない。例えば、ベルリン・フィルの1960年代のマーラー録音は先にも書いたがバルビローリとの第9番を録音(1964)だけだ。(その他参考として1960年後半にドイツ・グラモフォンに、クーべリックはバイエルン放送交響楽団と第1番《巨人》(1968)、第2番(1968)、第3番と第10番から (1968)、 第4番(1968)、第5番(1971)、第6番(1968)、第7番(1971)、 第8番(1970)、第9番(1967))
②ベルリン・フィルのマーラーの『巨人』
1954年没の巨匠フルトヴェングラーは、練習中その理解しきれないマーラーの音楽に大層困ったようだ。疲れるので、マーラー他の指揮者(例えばワルター)に任せたいと洩らしたらしい。そうした経緯も関係あったのか、ベルリン・フィルには1964年にバルビローリが第9を録音するまで、マーラーのスタジオ録音はなかった。1970年代にやっと、カラヤンがマーラー録音を開始。しかし、なぜか『巨人』は取り上げられずに終わった。
● ハイティンク&ベルリンフィルによるマーラーの『巨人』(1987)蘭フィリップス420 936-1
演奏⇒8.0点
録音⇒8.5点
『巨人』を最初に、このオケでスタジオ録音したのは、ベルナルド・ハイティンクである。1987年のフィリップスによる録音。演奏はあとで紹介する、アムステルダムコンセルトヘボウによる旧録音をベースに、パワーアップしかし、まさにパワーアップし過ぎたかな?ハイティンク先生。やや、がっくし(がっかりの意)のマラキチでございます。ホルンは文句ありませんが、その他の金管は、やかましいです。しかし、これは録音技師にも問題ありそう。ヘビーメタルじゃないのだぞ、といいたい。オンマイク過ぎじゃないのですか。
● アバド&ベルリンフィルによるマーラーの『巨人』(1989)韓国DGG431769-1(韓国盤のみ)
演奏⇒9.5点
録音⇒9.0点
1990年、アバドは、カラヤンの後の音楽監督になった。その直前の1989に録音したのが、この『巨人』だ。夫婦の結婚に例えば、婚約中の期間で、そのため適度な緊張感もある。アバドとの間にベルリンフィルの『巨人』の名演がやっと!?ここに誕生。 第1楽章序奏では、ゆったり余裕を持って開始される。さすがベルリンフィル、技術に支えられた、美音にうっとりさせられる。録音の巧さもあろうが、音を引き出すアバドも見事。この楽章は自然な盛り上がりを見せ、締め括られる。ちなみに、アバドの一回目の録音は、前回紹介した、シカゴ響とのものだ。そこでは、録音でも損していたが、やはりベルリンフィルの方が一枚上と感じる。この頃のこのオケには、表現に『含み』や幅を感じる。ただ巧いだけではないのだ。
第2楽章にはとても感心させられた。アバドは感覚的にだが、ゆったりしたテンポで開始する。充実した弦のその響は、輝かしい。アバドの指揮は、まさにそれを生かしており、見事だ。アメリカのオケが下手な指揮者とやると、機械的になり、『大海原を行くイカダ』ではなく、『突進する水中翼船』に成りかねないのだ。
第3楽章のテンポは遅くはないが落ち着いた表現で、全四楽章の重心を置いている。この楽章はセカセカすると、バランスが悪くなる。もし仮に最後まで、『花の章』が残っっていたら、それはそれで、多少前に行く表現で良いかもしれない。しかし、マーラーはワルターもいっているように、4楽章を選んだ訳で、行進曲だが、それを強調すると、落ち着かないのだ。
第4楽章は問答無用!ベルリンフィルの技術と、表現力全開だ。低音がガッチリ支えた強奏部分は、ピラミッド型ですばらしい。バスドラムやティンパニの一音一音までが、他のオケ以上に完全にコントロールされている。まさに『嵐』のような、この楽章は、狂暴にも、過激にも演奏できる。しかし、そこを、四分の一歩手前、半歩手前でとどまる表現を使える。さらりそいしたセルフコントロールをやってのけるのは、超一流オケならではだ。指揮者、オケ、録音、総合的感銘等全てのバランスの良い名盤となった。
③バイエルン放送響のマーラーの『巨人』
バイエルン放送響は比較的歴史の浅い、ベルリンフィル、北ドイツ放送響と共に旧西独を代表するオケだ。本拠地はミュンヘン。オイゲン・ヨッフム、ラファエル・クーベリック(1961~音楽監督)が、育成に尽力し、クーベリック時代に黄金期となった。彼はマーラーの交響曲全曲を1960年後半から1970年初頭にかけ録音。やや、米国や他の欧州各国のオケ遅れながらも、マーラーの音楽を広めるのに貢献したオケだ。
●クーベリック&バイエルン放送響の『巨人』 独AUDITE80467 (1979)
演奏⇒9.5点
録音⇒8.5点

先のようにクーベリックはドイツグラモフォンに全集を入れているが。『巨人』に関しては、アウディーテから出ている、1979年のライブ盤が素晴らしいのでそちらを紹介したい。バイエルン放送響は、南ドイツのオケということもあり、比較的明るい音がする。クーベリックがチェコ出身ということもあるだろう。クーベリックやノイマンのマーラーは、ワルターやバーンスタインのような、粘りのある表現とは対照的だ。
しかし、クーベリックやノイマンには、ワルターと同様のマーラーの作品への愛情があり、非凡な指揮者としての才能と、そして何より同郷ボヘミアのマーラーへの共感があるようだ。クーベリックのマーラーは全曲を通して、淡々と進められ、粘りけは少ない。健康な人の血流のように、サラサラ流れる。血は隅々に行き渡り、細部もきめ細やかだ。強調されるのは、格調の高さで、その分苦渋や重苦しさは軽減するが、飾らない自然体ゆえ、違和感がうまれないのだろう。
最近、クーベリックの指揮姿を映像で見た。出てくる音楽と同様にまこと美しい指揮振りだ。澄んだ目が印象的で、とても引き寄せられる。指揮はシンプルで淀みがない。クーベリックの指揮のもと、様々な映像からオケの彼への信頼の深さがひしひしと伝わってくる。私の中では最も美しい指揮者一人で揺るがない。そして、実演に接してみたかった指揮者だ。
第1楽章序奏では、牧歌ともいえる様相だ。緊張感よりも温もりのある表現だ。クーベリックの指揮はまったく奇をてらうことなく、淡々としている。その分陰影や、神秘さはないが、その分それ以上の格調の高さが備わる。しかも、クーベリックの演奏は、楽しいのだ。美しい風景を見ながら野山を散策するようなものだ。
第2楽章はアバド&ベルリンフィル盤同様素晴らしい。三拍子の音楽、中でもこうしたワルツ以外の曲では、アメリカのオケからは、正確さや、鋭さは容易に聴き取れる。しかし、それに合わせて踊ってみなさい。といわれても、なかなかそういう演奏は少ない。しかし、クーベリックの演奏では踊れそうなのだ。
第3楽章は、ある種、高貴な悲哀を感じさせる。中間部はひなびたボヘミアの農村の風景のようだ。
第4楽章は、ライブの熱気がうまく生きている。クーベリックの引き出す音楽の格調さと、作品の激しさとが融合した。非常に充実した響きを持つ演奏となっている。
④ウィーン・フィルのマーラー『巨人』
1950年代にはデッカにクーベリックとの録音があり、モノラル録音のものだ。残念ながら、終楽章にカットがあり、演奏はクーベリックとしては、前述の後年のバイエルン放送響とのものが優れているので、敢えて取り上げない。
●クレツキ&ウィーン・フィルのマーラー『巨人』英HMV、ASD483
(1964)なぜか?終楽章にカットがある演奏がもう一枚ある。ステレオ期のクレツキのものだ。これは演奏自体いいので、カットが残念だ。LPの収録時間の都合ならばもったいない。この頃のウィーン・フィルは、いくつかの証言があるが、あまりマーラーを好まなかったらしい。蛇足になるが、1970年代バーンスタインもウィーン・フィルと映像でマーラー全集を入れている。その練習風景が残っている。そこでは、ウィーン・フィルに対してあたかも『みなさん、その程度しかできないのですか』といわんばかりだ。ニューヨークフィルや、アムステルダムコンセルテヘボウ等に比べれば、マーラー演奏に関してウィーン・フィルは『後進国』だったようだ。ワルターと第9の世界初録音したオケなのに、戦中ナチスの台頭でマーラーが一時期演奏できなかったため、忘れてしまったのだろうか?という訳で、クレツキも録音の際、大層てこずったであろう。しかし、カリカリしながら、やったおかげで、演奏はよくなっているようだ。ウィーンフィルの弦の美しさをよく生かしており、特に終楽章は駿馬に鞭打つという感じだ。
尚、レコードのオリジナル盤、英国製のASDのホワイト・ゴールドだと素晴らしい音質が得られる。これはオーディオ・ファンの間で高額で取引されてるLPだ。
●マゼール&ウィーン・フィルの『巨人』(1985)米CBS-7464-42141-1
演奏⇒8.0点
録音⇒9.5点

演奏⇒8.5点
録音⇒9.0点
マゼール&ウィーン・フィルは1989年までに、CBSにマーラー全集を録音した。バーンスタインそしてマゼールらにしごかれた結果、この頃になるとウィーン・フィルにとってもマーラーは既に馴染みのレパートリーになっている。
マゼールの『巨人』には大分期待したが。。。結果はまあ、時間がかるのが特徴的だが、私にとっては予想よる普通の演奏になった。マゼールの才能はその類例をみない聴覚に代表されるが、全く疑いないものだ。しかし、マーラーの中で『巨人』に限ってはこの曲の規模は彼には小さ過ぎたのではいか。実際、第5番以降の出来が素晴らしいのだ。粘ることが多いがその意味は今ひとつわからない。他の指揮者が手を焼く大作でこそ本領発揮できる。マゼールはアジをさばくより、マグロをさばく方があっているのか?
⑤アムステルダムコンセルテヘボウ管弦楽団の『巨人』
このオケは、作曲者から深い信頼を寄せられていた、指揮者メンゲルベルクが関わっていた。それだけに、マーラーの音楽を広めるのに、多大な貢献を果たしてきたオケの一つだろう。近年に於いても、バーンスタインがマーラーDGGの録音で、『巨人』と第4番、そして何より第9番にこのオケを選んでいることに、大きな信頼を得ていることが伺われるのである。
アムステルダムコンセルテヘボウ響、サテンシルバーのように、品のある響きを持つオーケストラだ。トランペットやトロンボーンも派手なプレーをせず落ち着いたブラスセクション。木製のフルートの使用にもみられる、弦と溶け込む木管セクション。そしていかなる強奏でも、乱暴、過激にならないこのオケのサウンドは、ある意味驚異的だ。
●ハイティンク&アムステルダムコンセルテヘボウ管の『巨人』蘭フィリップス416243-1
演奏⇒8.5点
録音⇒8.5点

ハイティンクには、このオケと2回『巨人』の録音を行っている。全集に取り掛かる以前の若き日のものと、全集を締め括った1972年のものだ。私なら、断然新盤をとる。『巨人』、第4番、そして『夜の歌』等は同オケとのスタジオ再録があるが、どれも、新盤の方が、出来がいい。ハイティンクは、どちらかといえば大器晩成型指揮者で、同じオケとなら、大概演奏は後になる程成熟するのだ。
ハイティンクの『巨人』では、ベルリンフィルとの演奏は、金管がうるさくて、がっかりした。が、アムステルダムコンセルテヘボウ響とのは、安心して聴ける。ハイティンクの解釈は変わったことは何もしていない。その分前述のオケの巧さと音色を堪能するものとなっている。
尚このレコードは、再発盤をとる。音に柔軟性と透明感があるからだ。これはカッティングエンジニアによる音質の違いか。アナログは本当に奥が深い。
●バーンスタイン&アムステルダムコンセルテヘボウの『巨人』(1987)独DGG427303-1
演奏⇒9.5点
録音⇒9.5点

アムステルダムコンセルテヘボウ管&バーンスタインが組めば、最高の『巨人』になる。そう予想しながら、この録音が発売された、当時ドキドキしながら聴いたのを覚えている。期待は裏切られず、予想通りの名盤となった。大きな流れはニューヨークフィルとの旧盤と変わらない。思い切りの良さでは旧盤、成熟と落ち着きなら新盤となる。
ただし、第3楽章は、やや先に行きすぎる嫌いがある。全四楽章の重心を意識して、もう少しテンポをゆっとりとらないと、バランスが悪くなる。しかし、その他の楽章は欧州オケによる『巨人』では最高の出来で、総合で欧州一といえる名盤となった。
⑥国籍不明?オケによる『巨人』
私の中で『巨人』の古今の最高のLPは、バーンスタインの新盤といいたいところだが、今回、私が最後に効いた一枚は。演奏はビッグなオケによるものではない。
●ワルター&コロンビア響の『巨人』(1961)米コロンビア MS6374
演奏⇒10点
録音⇒8.5点

それは、国籍不明、多分アメリカか?アメリカの録音用オケ、コロンビア響!指揮者は、バーンスタインがこの演奏を聴いて『巨人』の録音を延期した?録音を残した、かのブルーノ・ワルターである。
最近、長年の念願叶って、オリジナル盤、米コロンビアの2eyesレーベル盤を入手。
感想は・・・泣けた、そして、『巨人』の全演奏の中で高くそびえるエベレストとなった。なんという繊細さ!深い作品への愛情!常設ではない、録音用オケからこれ程のものを引き出すバトンテクニック!私にとってこれだけ感動できる盤はない。
ワルターに脱帽だ。
尚この盤は米コロンビアの2eyesで是非聴いて欲しい。再発オデッセイレーベル盤も音は良いが、実際の鮮度は下がっているのではないか。雰囲気は2eyesが一枚上の素晴らしさだ。
マーラーと向き合う日々・・・アナログ期のマーラーの名盤①
アナログ時代のマーラー演奏を振り返る marakiti1968
はじめに
今まで私にとって、音楽について語るということは、前向きなれないことだった。音楽に対して説明をしたり、演奏家への評価をすると、自分のみならずその音楽や演奏家に対して誤解を招く可能性があるからだ。
ある一枚のレコードについて語るとしても、所有する再生装置によって、それを聞く聴覚の個体差によって、聴こえ方は異なるのだ。従ってここに連載されものは、私個人の独断と偏見によるものであって、私個人の感覚の産物であること。そのことを十分にお分かりの上読んでいただければ幸いである。
来年2010年はマーラーの生誕150周年を迎える。記念の年の前年にあたる2009年に2010年に向けて、自分なりのマーラーの名盤を紹介していきたい。尚、試聴の対象となったのも、アナログ(LP)に限られるたことをご了承いただけると幸いである。熱烈なアナログ(LP)・ファンとして、私のあがきのようになると思いますが、この点は何卒ご容赦いただきたい。
『巨人』の足跡的な1番目の交響曲
・・・□□□マーラー:交響曲第1番『巨人』 其の1□□□
『巨人』は、私が二十歳前後に、特によく聴いた曲である。
オケの編成が大きく、金管が強化されているので、ブラスバンドをやっていた自分に受け入れやすかったのだろう。という訳で、青少年に人気絶大で、
マーラーの入門?曲となっている。
マーラーはこの曲を現在の形にするまで、苦心したようだ。
この『巨人』、当初は、第2楽章「花の章」を持つ、全5楽章のスタイルを持った交響詩であった。マーラー自身は5楽章構成を得意としたのではないか。実際、第9を除いて4楽章構成の作品には頭を悩ましたようだ。
第4交響曲の最終楽章は、「子供が私に語ること」=「天国の生活」として第3交響曲に組み込まれるはずだった。また第6交響曲「悲劇的」は第2楽章=スケルツォと第3楽章緩やかな楽章の配置は前後をどちらにするか、最後まで迷ったらしい。(当初の第1番、第2、5、7、未完の第10の交響曲は5楽章からなる。第4、6、9等は4楽章)
数回の実演を経て、作曲者の1896年の改訂(1899年ヴァインベルガー版の出版前にマーラーは徹底的な改訂を行っている。音楽の友社OGT1446より)により、他の楽章のオーケストレーションにも手を加えつつ「花の章」の省略される。これは第2番「復活」、そして第3番の完成後である。このことからすれば、交響曲『巨人』は最初演の交響詩とは全く同じものとは考えにくいという意見もあろう。時にマーラー36歳、これはベートーヴェンで云えば「エロイカ」を既に作曲している年齢である。モーツァルトで云えば「ジュピター」を書き既に人生を終えている年齢となる。一般には、花の章を含む交響詩として完成時である作曲者28歳の1888年を、『巨人』の作曲年としている。それからすれば、早熟な作曲家の若書ともいえる。が、しかし、最終的に手を加えた年齢を考慮すれば、『巨人』の完成度は高くなって当然といえば当然かもしれない。(こういったケースは、シューマンの交響曲の第4番にも共通する)。
その結果、マーラーの『巨人』。それは、あらゆる作曲家の第1交響曲の中で傑出している。「若き日の魅力的素材」に当初より上達した作曲技法を加え、素晴らしく仕上がった作品。結果それを享受できる我々は大いに喜ぶべきであろう。
そして、その紆余曲折による最終的な完成は、大交響曲作曲家マーラーにとっても、まさしく『巨人』の足跡のような1番目の交響曲となったのだ。
1、 アナログ時代のマーラーの演奏
① 米国オケの功績
今でこそ、マーラーの交響曲は、多くの指揮者とオケにとって重要なレパートリーとなっている。しかし、マーラーが「半世紀後に私の時代が来るであろう」といったように、彼の作品が今日のように受け入れられるまでには、それ相応の時間が必要であった。ワルター、クレンペラーやそしてメンゲルベルク等いった、作曲者と深い関わりのあった指揮者をはじめてとして、演奏家の努力に無くして今日のマーラー演奏は語れまい。
マーラーの交響曲の演奏や、録音の歴史は、米国のオーケストラの貢献を抜きには語れない。特にニューヨーク・フィルは1909年にマーラー自身を常任に迎えているし。以後彼と関わりの深い指揮者が指揮台に迎えられている。1923年にはヴィレム・メンゲルベルク(ジョーゼフ・ストランスキーとの2人の常任体制)。1947年からのシーズンは音楽監督を置かず、直弟子ワルターが音楽顧問となっている。これを見れば、ニューヨーク・フィルがいかに、マーラーと関わり深いかがわかるだろう。
また、米国のレコード会社は、その潤沢な財力により、1960年代中ごろまでに、積極的にマーラーの録音を行っている。
ミネソタ交響楽団は、ミトロプーロスと『巨人』の1940年世界初録音をしている。
ニューヨーク・フィル(正しくは当時は別名となる)はワルターと第5番を世界初録を行っている。
同楽団は、バーンスタインは第1~9番のみとはいえ、また8番はロンドン響採用も、1960年代中ごろには世界初のマーラー全集を完成。
シカゴ交響楽団は、1958年には世界初の第4番のステレオ録音をF.ライナーと果たしている。
フィラデルフィア響はオーマンディと第10番D.クックの補筆完成盤を1965年に世界初録を行っている。
以上の中でライナー以外の録音は全て米コロムビアである。
米コロムビアには、この他にワルターの第4(MONO、ニューヨーク・フィル)第1、第9(コロムビア響)第2、大地の歌(ニューヨーク・フィル)がある。1966年には、世界に先駆け、ステレオ録音で第1~10番、大地の歌のマーラー等のラインナップが、コロムビアのカタログ載ったのだ。
この他米エピックは、セルが第10盤の第1と第3楽章を1958年に録音している。
このように、ほんの一例だが、米国において1960年前半までに、いかにマーラーの録音に積極的に行われたかお分かりいただけよう。
マーラーと向き合う日々・・・
アナログ時代のマーラー演奏を振り返る (2月2日②)
ニューヨーク・フィルの1909年にマーラーを常任に迎えた、
このオケは米COLUMBIAと共にマーラーの交響曲を積極的に録音
している。音楽顧問ワルター、1958年に音楽監督なったバーンスタインや、
1977年に就任したメータ等は、『巨人』の録音を残した。
● ブルーノ・ワルター:ML4958(1954年)MONO
演奏◆9.5点(10点満点)
録音◆6点(10点満点)
これは、有名な1961年のコロムビア響の演奏ではない。
音が、やや古く硬い感じがするのが残念だが、
ニューヨーク・フィル最初の『巨人』として、記念碑的録音であることには
間違いない。ワルターの指揮ぶりは、彼のステレオ盤の録音からすると、
意外に激しく厳しい表現もあり、新盤と同一の指揮者とは思えない場面も
多々ある。迷いの無い闊達なワルターの指揮のもと、
力感溢れる演奏を展開している。
第1楽章
「世界の創造」を描いたような、哲学的な表現だ。
原始世界から、生命が生み出され、やがてそれは、
緑と花々に満ちた春の風景になっていく。
第2楽章
参考として、交響詩の段階では「順風に帆を上げて」と副題にあった。
ワルターの演奏は、まさに大海原を力強く進むイカダの前進のようだ。
第3楽章
参考として、これには交響詩『巨人』の段階では
「座礁、カロ風の葬送行進曲」と副題があった。
ワルターはこの葬送行進曲を、厳粛に演奏。
ティンパ二の乾いた音(録音の貧しさも手伝っている)が、
怖いほどの寂しさを導く。戦後10年以内の演奏には、
戦争に関わる、寂しさ、不安、悲愴といったものを
感じさせる演奏があることがある。私自身は戦争は知らないが・・・。
第4楽章
最終盤には「嵐のように運動して」とあるが、
正にワルターは、力強く「嵐」そのものような演奏を展開。
これ程の表現は、ワルターには珍しい。
ライブの演奏に一部このような激しさがあるが。
私自身は、音楽とは才能の産物であり、
その演奏者の人生や人格と結びつけることは好まない。
それでも、この演奏からは何かを感じないではいられない。
戦争や、人種的迫害と戦ってきたワルターが、
大切なものを失いながらも、強く生き抜いた。
そんなワルター自身のそれまでの波乱に満ちた人生と
重なり合うような演奏のように聴こえるのだ。
●レナード・バーンスタイン:MS7069 2EYES (1966年)
演奏◆9点(10点満点)
録音◆8点(10点満点)
彼にはDGGのコンセルトへボウとの熟成された1987年10月録音がある。
しかし、この旧盤も捨てがたい。
1965年過ぎまでの、ニューヨーク・フィルの主席陣は兵揃いであった。
そういう理由で、華やかさも魅力になっている。
一部難をいえば、第3楽章は、テンポはそんなに速くはないが、
感覚的にやや先を急ぐ感じがあってやや残念だ。
その他の楽章は、まさにバーンスタイン流の、良い意味で豪快な演奏だ。
バーンスタイン48歳という若さゆえの思い切りのよさが好ましく働いている。
彼にとっても、時よりオケが見せるわずかな軋みも音楽なのだろう。
マゼールのような知的な表現はないが、
バーンスタインには誰にも及ばないよい意味で情念がある。
この録音は、バーンスタインがワルター2回目の録音を聴いて、
録音を延期したらしい。敬意を払ってのことか、
レコード会社の戦略もあったのだろうか?
この理由で、彼の1回目の全集でも最後期の録音となる。
満を持しての演奏だけに充実している。
だが、終楽章途中まで「ワルターを意識」したのだろうか。
バースタインの指揮は、私は何かに「挑戦」しているような印象を受けるが
私の気のせいだろうか。しかし、終結に向かっていくにしたがって
「ワルターさんさようなら、これが僕のマーラーです」とでもいいたげに、
独自の「巨人」のスタイルで曲を結んでいるのだ。
具体例をあげると、最終781小節の最終音にティンパ二が重ねられているし、
696小節のフォリテ×2⇒ピアノ⇒クレシェンド⇒フォリテ×2に入るところの、
ワルター旧盤以上に急な加速ギアチェンジ
(シノーポリは逆に急に減速する)
を際立たせている等だ。
終楽章の終結部の、独自のやや強引だが、しかし、
よく考えられたテンポの緩急はマーラーに相応しいといえるかもしれない。
マーラーが生きていて、ワルターの新録音とこの録音を聞き比べたら
なんというのだろうか。生前、緩急自在で周到な表情付けのメンゲルベルクが、
マーラーから高い評価を得ていた。
いったいどんなコメントをするのか興味津々だ。
尚、この録音は同オケの125周年を記念して録音されている。
● ズービン・メータ:32AC1420 (1980年)
演奏◆8.5点(10点満点)
録音◆9.5点(10点満点)
少し寄り道をするが、
同じ組み合わせでこの頃の公演の演奏を聴いた時のこと。
ブラームスの第4交響曲の出来が散々で、
演奏終了後オケがなかなか立とうとしなかった。
メータが痺れを切らして「Stand up!」と怒鳴る始末。
この録音と本当に同じオケなのか耳を疑ったものだ。
それだけ、このオーケストラは出来不出来に落差の有る
「気分屋」だということだろうか。
これは、録音も素晴しく、且つニューヨーク・フィルにしては珍しい?
緻密なアンサンブルを堪能できる一枚だ。
解釈は中庸で、反面バーンスタインのような強引さは無いが、
その分、リラックスして聴ける演奏である。
ここでメータは、マーラーの音楽にある懐疑、不安や苦悩という要素を
覆い隠すような表現を行っている。
物理的にいえばバーンスタインはオケのアンサンブルの軋みも
表現に取り入れていた。
一方メータは余力を持って演奏して決して軋んだり、
うるさくならないようにコントロールしている。
ゴージャスな音の洪水に、浸りたいリスナーに推薦したい演奏と録音だ。
『巨人』や第3、第4番等交響曲はこういう演奏も許容されるのだ。
尚、この録音は日本盤にはCBSのマスターソニックという、
上質のレコードで発売されたものがある。
これで聴くのが最良の選択ではないだろうか。
通常盤より、この演奏の魅力が十二分に瑞々しく再現される。
究極のオーケストラの一つシカゴ響による『巨人』
最近、ショルティ指揮、シカゴ響のマーラー第9番(1982年録音)を聴いた。
贅沢をいえば、技術が万全で、不足のないところが、
このオケのへの「不足」を感じる原因となるかもしれない。
室内楽的とまでいえるほどに音程が揃っているので、
音が冷たく筋肉質になり勝ちなのは必然だろう。
しかし、この最弱音から、最強音まで演奏可能な音量の幅は、
世界のオケの中で最大ではないか。
切れ味鋭い壮絶な演奏だ。このようなシカゴ響の特徴は、
『巨人』の方が曲としてはぴったりくる。
● ゲオルグ・ショルティ:L00C5418-9(1983年)
演奏◆9.0点(10点満点)
録音◆9.5点(10点満点)
これは1983年録音。
ショルティは、指揮者は「腕っ節に自信がなくてはならない」と語ったらしい。
この演奏は、まさに彼の激しい指揮振りが目に浮かぶような演奏だ。
ただ、激しさだけではなく、当時71歳だけあって熟練の味も出している。
緩急の「緩」の部分での緊張感を持続しながらも、
落ちついた厚みと含みのある表現はさすがだ。
第1楽章、曲頭弦楽器のフラジオレットによるA音は、
「音響テストレコードなのか?」と思えるような正確さで、
最初から度肝を抜かれる。
第3楽章の弱音は、音量は小さいが緊張感の張りのある音を持続。
強力な最弱音もこのオケの魅力だ。
第4楽章は、小回り、破壊力、美しい弱音全てを備えた技術全開の
演奏となっている。どんな難所も難しそうには奏でない、
舌を巻いてしまうような演奏だ。
尚、この録音は重量盤レコードのロンドン・ファイナルLPシリーズ)
で聴きたい。2枚3面に渡ってカッティングされている。
歪が抑制され、更にこのオケの特徴であるシャープさを顕著にしている。
●クラウディオ・アバド:2532 020(1981年)
演奏◆8.5点(10点満点)
録音◆8.0点(10点満点)
これに先立ち、同オケは1981年にはクラウディオ・アバドと組んで、
DGGへ録音をしている。平均レベル以上ではあるが、
残念ながら、アバドの出来は、ショルティまで徹底できてはいない。
やや中途半端な印象を受ける。
最終楽章の最後の盛り上がりはさすがといえる。
だが、録音が今ひとつデッドなので第3楽章までの魅力が
やや薄くなってしまっている。
●カルロ・マリア・ジュリーニ AE34437:DMM方式(1971年)
演奏◆8.5点(10点満点)
録音◆8.5点(10点満点)
シカゴ響は更に遡ること10年、1971年にはジュリーニと組んで、
EMIへ録音している。
壮年期のジュリーニはここで『巨人』を、
円熟期(DGG録音以降)の重々しいテンポとは異なり、
平均的テンポで仕上げている。
第1楽章が粘り気味で16分以上かかっていて長めなのが、
後年を連想させる位か。
第1楽章、ジュリーニはシカゴ響の最弱音の緊張感と、
演奏技術を駆使し息の長い序奏を行っている。
濃い霧が少しずつ晴れていくような表現で幻想的だ。
「カッコウ」が動機がなり始めると、霧が晴れてくる。
粘りの有る序奏は続く主部の闊達さを際出すことに成功している。
第3と第4楽章の合計タイムでは、
意外にもショルティよりやや速いテンポで演奏している。
特記すべきは、第4楽章の終わりの部分での、
決して乱暴にならないアンサンブルの緻密さだ。
切れ味を前面に出すことなく、
オケが充分な余力を持って演奏するようにコントロールしている。
尚、これは、DMM方式という、
1980年頃ドイツで開発された技術を採用した盤で聴きたい。
発売当初の盤は、潤いある音がするものの、広域の切れに難点があった。
しかし、このDMM方式の盤では、著しく高域方向に改善が見られる。
C.ビショップの録音芸術がやっと生かされるようになった。
オリジナルからすれば一皮向けたという表現が当てはまる。
私も最近までデジタルリマスターは全て駄目!と決め付けていたが、
DMMとの組み合わせによって改善される部分もあるようだ。
但し、DMM方式は、溝の刻み方が浅く狭いので弱音部分のノイズが
相対的に大きくなることは明記しておこう。犠牲になる面もあるのだ。
次回予告
2/11頃更新、マーラー:交響曲第1番 其の2
「私の独断と偏見で選んだ『巨人』のベストレコードは・・・・」
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