猫丸しりいず第120回

●猫丸しりいず第120回
 
◎ヘンデル:オラトリオ「メサイア」(抜粋)
 
アンドリュー・デイヴィス指揮 トロント交響楽団、トロント・メンデルスゾーン合唱団 他
(海外EMI 5747332)
あれは去年の夏の事だっただろうか。
 
お客様から電話で、ある曲のおススメ盤のCDを何点か教えてほしい、とオーダーを受けた私は店内の在庫の中から数種類の盤をご案内した。すると、そのお客様は「それらを全て買いたいので、通販で送ってほしい」との事。「へえ、同じ曲のCDを一度に沢山購入されるとは珍しいな」と私は思い、お送り先の住所を伺った。その住所を耳にした時、私は思わずハッとさせられた。
 
それはその年の3月の大地震で甚大な被害を被った岩手・三陸の街のものだったのである。思わず私が、「あ、三陸ですね」と話しかけると、電話の向こうのその方は「そうなんですよ。CDも一杯持ってたんだけど、津波でみ~んな流されちゃってねえ・・。でもまた無性にこの曲が聴きたくなってしまったんですよ~」。その明るく軽い語り口に、かえってその方の受けたであろう大変な災難と、そしてご苦労が察せられ、私は胸が詰まり何とお答えしたら良いのかわからなくなってしまった。そして、そんな極限的な状況下にあってなお、「音楽を聴きたい!」という言葉に、私は本当に共感してしまった。
 
そのお客様がお求めになったのが、ヘンデルの「メサイア」であったのは、何だかとても象徴的だ。ヘンデルの、いや、古今の全てのオラトリオの中でも最高傑作と言えるこの名作は、ヘンデルのキャリアの絶頂期で生み出された・・と、かつて私は信じていた。
 
ところが文献に当たってみると、この曲は「絶頂期」どころか、彼の人生の中でも最も「ドン底」と言ってよい時代の作品だったのである。「メサイア」を作曲する5年ほど前、彼は大病を患い、それに追い打ちをかけるように精魂込めて作曲したオペラが立て続けに大失敗に終わり、精神的にも経済的にもまさに絶体絶命と言えるほどの苦境に陥った。意気消沈していた彼に、台本作家ジェネンズが聖書をもとに書いた台本を渡し、作曲を勧めた。その台本を読んだヘンデルは俄然創作意欲を掻き立てられ、まさに何かに憑りつかれたようにわずか24日間で大作のオラトリオを書き上げたと言う。
 
その作品こそ「メサイア」である。この曲はヘンデルにとってまさに起死回生の大ヒットとなった。実際この曲が無かったら、彼が今日あるような「大作曲家」と呼ばれるポジションを確保出来ていたか疑わしいと思える程である。「もう俺はダメだ」と嘆きたくなる逆境から金字塔を打ち立てた彼の生涯に、私は「復興」というコトバを重ねずにいられない。何度も津波に襲われながら、その度に立ち直ってきた三陸の街。きっとヘンデルのように「ドン底」から這いあがり、かつての賑わいを取り戻す事だろう(ただそのためには国民皆が痛みを分かち合う事も必要とは思うが)。月並みではあるが「メサイア」を心の支えに希望を持って生きて頂きたいと思う。人間、生きていればきっと良い事もありますよ。
 
さて「メサイア」と言えば、最近はすっかり古楽オケによるスリムな演奏が主流になり、今回ご紹介のA・デイヴィスのようなモダン・オケと大合唱による演奏は「大時代的」というレッテルを貼られがちだ。でも私は、例えばガーディナーのようなスリムで歯切れ良い演奏にも大いに惹かれるものの、今でもオールドファッションな大編成スタイルでの演奏に強い愛着がある。バトル、レイミー等の名歌手も共演したこの盤(1986年録音)、全く地味な存在ではあるが中々捨てがたい味があり、私の愛聴盤である。
 
それにしても、どんな厳しい状況下でも音楽を求めるお客様のために、私たち音楽産業に従事するスタッフはもっと精進する事が必要なのだろう。私も頑張りたい。
 
だって、言うではないか。「人はパンのみにて生くる者に非ず」と。

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